「あきらめないことはいいことだ」
という認識が一般常識レベルで世の中に浸透しているように思うが、ここで、声を大にして私はこう言おうと思う。
「あきらめることはいいことだ」
なぜならみんな、何かをあきらめた人ばかりだから。かくいう私も、お寿司屋さんになって毎日たらふくお寿司を食べるという夢や、透明人間になって誰にも気づかれずにあんなことやこんなことをする夢は、とっくの昔にあきらめた。つい先日はビットコインで億り人になる夢もあきらめたばかりだ。
本当に?
ところがこんな風に「あきらめることはいいことだ」なんてことを言うと
「あの人は夢をあきらめずに毎日一生懸命がんばっているのに、君はそれを否定するというのか」
と喧嘩腰に突っ込んでくる人がいるかもしれないので、一応釘をさしておくと、
私は、「あきらめないことがいけないことだ」なんてことは一言も言っていない。
おまけに、少し考えてみれば、「あきらめることはいいことだ」という言葉の裏には
「あきらめないことはもっといいことだ」や
「あきらめることをあきらめることはいいことだ」
という言葉の可能性もキチンと用意されていることに気付くだろう。
ポイント
この事実からわかるように、「あきらめることはいいことだ」と言った場合においては、あきらめた人はもちろんのこと、それに加えあきらめることをあきらめた人も、つまり生けとし生ける全てのものを肯定できるフトコロの広さがある。
ひるがえって「あきらめないことはいいことだ」はどうであるか。あきらめないことを肯定しつつ、さらに同時に「あきらめること」も肯定できるであろうか。
「あきらめることをあきらめる」ことは簡単にできるが、「あきらめるのをあきらめない」ことはできそうな気もしないではないがなんだかちょっと難しそうだ。
あきらめることをある程度肯定せずに「あきらめないことはいいことだ」と言い切ってしまうと、コンプライアンス全開の今のご時世、あきらめることを良しとしない偏見に満ちた発言だと叩かれることもあるかもしれない。
でもまあ、そんなことよりまず根本的に、「あきらめないことはいいことだ」と言った場合、それは言外に「あきらめることはいけないことだ」というニュアンスが文の構造上どうしても含まれてしまうので、あきらめた人を暗に否定してしまうのは避けられないことだ。
嘘だとおもうのであれば「あきらめる」の所へ他の言葉を代入してみるとよくわかるだろう。
「人を傷つけないのはいいことだ」
「大麻を吸わないのはいいことだ」
「図書館で爆竹鳴らしながら自衛隊体操をしないのはいいことだ」
なんかまわりくどいというか、ちょっと含みを持った言い方ではないだろうか。
これらは意味を保ったまま以下のように書き換えることができる。
「人を傷つけるのはいけないことだ」
「大麻を吸うのはいけないことだ」
「図書館で爆竹鳴らしながら大麻を吸って自衛隊体操するのはいけないことだ」
むしろこちらの方が日本語としては自然である。
ここに来てようやく、「あきらめないことはいいことだ」という文章自体が、そもそも日本語としてちょっとおかしいのではないかと思えてきただろう。
あきらめるの反対は?
実は「あきらめる」の反対が「あきらめない」と思い込んでいるが、実際のところそんな単純な話ではなく、これらの二つはそもそも全く性質の違う言葉なのではないか。
あきらめる」というのは、その時その瞬間の行為のことで、断続的なニュアンスがある。
一方「あきらめない」という表現は行為というよりはむしろ状態で、最初から継続のニュアンスが含まれている。彼はもう10回夢をあきらめなかったとか、今日の19時まではあきらめるが、それ以降はあきらめないというような使い方はしない。
「あきらめること」は何度でもできるが、「あきらめないこと」は一度しかできない。「あきらめる」ではない状態、「あきらめる」に至るまでの状態を「あきらめない」と表現している。
その証拠に「あきらめ続ける」とは言えるが「あきらめない続ける」という表現は存在しない。
あきらめるに限った話ではなく、〇〇しないことはいいことだ、というのは一見ポジティブに見えて、実はネガティブな表現を捻じ曲げて、さもポジティブであるかのように装っている、いわば言葉のマルチ商法のような表現なのである。
また、もう少しマイルドな表現に「あきらめない方がいい」というのもあって、これは「あきらめないことはいいことだ」とは似て非なるもの。こちらはもう少しスマートで、まわりの人間を無闇に傷つけたりせずに優しく諭すような、人生の転機となった中学校の担任の先生のような表現である。
そろそろ自分が何を言っているのかよくわからなくなってきたので、ここらへんで結論をあきらめて筆を置くことにしよう。